南陽市に関する伝説

南陽市に関する伝説をご紹介します。
※記載内容は、南陽市市史 民俗編から転用されています。

蛙石 (びっきいし)

南陽市の伝説「蛙石」 山形市畑谷の大沼に住む主の蛙が、白竜湖の主になろうと夏の日盛りにやってきた。暑さのために途中で一休みして、ようやく川樋にやってきたとき、田の中で草取りをしていた百姓に、白竜湖までの道を聞いた。

 百姓は汗を拭き拭き、腰を伸ばし、「ここから白竜湖までは、十年坂という坂と、鳥しか通わないという鳥上坂を越えないと行けない」と答えるのを聞いて、ここまで来るにもひどかったのに、これから難所が二つもあるというのでは、とても行けぬというと、腰がくだけて座り込み、そのまま石になってしまった。


南陽市の伝説「蛙石」 また、日は暮れて、とぼとぼ峠を越えて村山から来た旅の坊さんが、そこで田仕事をしていた百姓に、鳥上坂を指さして、何という坂か聞くと、百姓は、「あの坂は十年坂という」と答えたのを聞いて、十年もかかるのでは越せぬと、そこで蛙石になってしまったという別話もある。


白竜湖

南陽市の伝説「白竜湖」 置賜がかんばつ旱魃に見舞われて、あちこちで水争いが起こるようになった。村人は毎晩のように雨乞いをしたが、雨は降りそうもない。旅の僧がやってきて、惨上を見て気の毒におもい、天に向かって経文を唱えること三日三晩、一天にわかに曇り、ぽつりぽつり雨がおちてきて、やがてざわざわと風が起きたと思うと、湖から白竜が巻物をくわえて天に登って行ったという。そこから村人はこの湖を白竜湖というようになった。

 東正寺は烏帽子子山の東側にあって、白竜湖に面している。その寺の若い坊さんは、びもく眉目 に秀でていたので、町の評判となった。湖の向かい側の金沢へ法要に行った折に、金沢の娘はすっかりほ惚れ込んで、何とか若い坊さんの嫁になりたいと願うようになったが、思いを遂げることができず、湖に身を投じてしまったが、やがて白い竜となって天に昇ったという。

 屋代村(現高畠町)深沼に竹田作右衛門という人がおった。家の前に種池があり、秋上げも終わって、餅をつ搗いたが、その杵を洗おうと種池に浮かしていたところ、次の朝になって杵が見えなくなっている。不思議に思って探すこと七日ほどして、杵が白竜湖に浮かんでいたという。置賜の池の底はみな白竜湖に通じているのだという。

 またこんな話も伝わっている。昔、白竜湖のある場所はたんぼ田圃だったというが、ある日、一夜にして田圃が陥没して湖になったと思ったら、竹の森村(現高畠町)に大きな山が出来上がっていた。その山が竹の森山であるという。

 白竜湖を埋めて、少しでも田圃をひろげようと考えたのは宮内の町割を行った代官安部右馬助であった。するとその晩、右馬助の夢枕に女が現れて、「この湖を埋めてしまえば、あなたの命は必ずなくなる」と言ったか思うと、姿を消した。右馬助は夢のこととして一笑に付し、次の朝には家来に命じて石を運び、白竜湖を埋めさせたのだった。次の朝見ると、あれほど積んだ石は一夜して沈んでしまった上に、その夜に右馬助が急死してしまったとも、右馬助が白竜湖を見に行くと、湖の向こう岸に光りものが輝いているのを見て、恐れをなして、埋めるのを取りやめさせたともいう。

法師柳

 昔、旅僧が托鉢しながらこの村に来て仏法を説いた。貧しい人に出会うと、托鉢でもらい受けたものを惜しげなく分け与えから、村人はこの旅僧を法師様と呼ぶようになった。ある暑い夏に雨は一滴も降らず、稲は枯死寸前となった。村人は雨乞いを旅僧に頼んだ。そこでほこら祠の前で七日七夜の雨乞い祈祷を行った効があって、昼下がりに一天にわかに曇って大粒の雨が降ってきた。いつしか、法師の姿はなく、村人の前に薬師如来の尊像だけが光り輝いて、一本の柳が立っていた。この法師は山寺開山の慈覚法師だったろうと言われて、楊林寺が後に建てられたという。

妹背の松(いもせのまつ)

南陽市の伝説「妹背の松」 長谷観音を建てかえた上方の彫師工左衛門の娘お梅は、工左衛門の弟子松蔵と恋仲になったが、それを知らぬ工左衛門は腕のいいもう一人の弟子竹蔵の嫁にしようとしたが、お梅は松蔵と秘かに逢瀬を重ねていた。それを知った父工左衛門は怒って、お梅を切り殺してしまった。

 長谷観音の彫物に何を彫ろうかと迷っていた竹蔵は、目の前が暗くなったと思うと、突然光が発し、その中にお梅の姿が現れ、それがたちまち龍となって「このわたしを彫ってくれ」という声を残し、天に登っていった。

 竹蔵は目に焼きついたそれを彫って長谷観音に飾って評判をとったが、お梅が父に切られたその晩、松蔵は修行に出る覚悟をし、親方と別れて山道を急ぐと、お梅がおいかけてきた。竹蔵と夫婦にさせたいと思っている親方の意に添うようにとお梅をなだめたが、お梅は聞かなかったので、二人で入水してあの世で二人で池に飛び込んだともいう。池の岸にはお梅のかんざしと松蔵の管笠が残っていた。幽霊に尻なしというのでその池を「尻無池」と言い、村人は二人の遺品のあったところに二本の松を植えて供養したが、いつしか二本の松の枝がつながって相生の松となったという。

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