結城豊太郎について

少年 結城豊太郎を育んだ郷土赤湯。
国の要職にあって多忙な中にも常にこよなく愛し続けた郷土赤湯。
帰郷の折りの裏山秋葉山に至る散策は、一木一草すべて思い出深く、山頂には故事ゆかしい「臨雲亭の跡」、眼下に「白竜湖」、遥か南に「吾妻連峰」と、情緒深く離れがたい絶景は、結城瞑想の地でもあったのです。

結城豊太郎の足跡

結城の生い立ちと学生時代 (1877年〜1903年)

学生時代の結城豊太郎 豊太郎少年は、赤湯の酒造業結城家の長男として生まれました。
 生来才知才能すぐれ、近隣の人々からも大いに可愛がられて成長しました。小学校では児童たちの日常行動の中心となり、卒業後待望の旧山形中学、旧制二校(仙台)、更に東京帝国大学に進みました。いずれも成績抜群で無試験進学、在学中は特待生として級友を率い、学業も教科の学習だけでなく、広い視野から学んで豊かな教養を身につけました。

修己治人と産業振興、結城豊太郎とその時代(1904年〜1937年)

 結城が中学3〜4年の頃、日清戦争が、そして日本銀行入行の年に日露戦争が起こり、国家近代化のため富国強兵が国策とされ、教育制度も国家社会の指導者養成を主とした時代でした。

 のち、戦後の反動不況、昭和初頭の金融恐慌に国民生活も窮乏し、時勢は満州事変、五・一五事件、そして二・二六事件など国の秩序が乱れ、戦時統制経済を余儀なくされて、 遂に不幸な道を歩むことになるのです。

経世済民とその実践、庶民の心に温かい蔵相(1937年〜1944年)

大蔵大臣として入閣 昭和12年2月結城興銀総裁は、林銑十郎内閣の組閣に当り、大蔵大臣に就任し、5月下旬墓参のため帰郷されました。

 何せあの当時の大臣、初のお国入りとあって町では大さわぎであった。盛大な種々の祝賀行事を計画し、連絡に上京した町長に、「大臣になったぐらいで何もそんな騒ぎをすることはない。一切行事をやめるように。」ときつく論され、一切中止となった。当日は、大臣の姿見たさに近郷近在の人大ぜい並んで駅前でお迎えしたが、先生は平常服で秘書一人だけで駅に降りられた。お迎えの人々に会釈されながら遥かに歩み進められたので、県知事初め出迎えの自動車が空車で何台ものろのろ続き珍しい行列になった。

このように先生は非常に庶民の心にも温かく接され、郷土の人々から慈父と慕われました。

ふるさとは国の本なり(1921年〜1951年)

 ひと、それぞれがわが身を修め、自分の立派な「ふるさと」作りをしましょう。それぞれの「ふるさと」が立派になってこそ、国全体がよく治まり平和な世となるのでしょう。

 そうした念願から、まず「ふるさと」を本と考え、その充実発展に生涯尽力されたのが、結城豊太郎翁でした。

臨雲先生・その世界

臨雲先生・その世界結城臨雲先生の処世は、修己治人
− わが身を修めて他人を治めるにあり、そして儒学の経典「大学」に伝う − 修身・斉家・治国・平天下の実践に在ったのです。

然もその基本として、格物・致知・誠意・正心の工夫が常にあって、如何に忙しくとも土曜午後から日曜にかけては他人と会わずに読書し、 そして「六中観」というものを心にとどめられ自らを深めたのでした。

結城豊太郎先生略年譜


明治10年(1877年) 山形県赤湯村(現南陽市)に生まれる。
明治29年(1896年) 山形県立山形中学校を卒業
明治32年(1899年) 第二高等学校(仙台)を卒業
明治36年(1903年) 東京帝国大学法科大学政治学科卒業
明治37年(1904年) 日本銀行検査局に入行
結城豊太郎
大正10年(1921年) 安田保善社専務理事及び安田銀行(現富士銀行)副頭取兼務
大正10年(1921年) 東京帝国大学の安田講堂創設に尽力、竣工(下:安田講堂棟上式)
安田講堂棟上式 
昭和3年(1928年) ヨーロッパ視察
昭和5年(1930年) 日本興業銀行総裁
昭和9年(1934年) 郷里赤湯に上水道敷設
昭和9年(1934年) 郷里赤湯に郷学の「風也塾」開設(下:往事の風也塾舎)
往事の風也塾舎
昭和10年(1935年) 臨雲文庫開設(下:臨雲文庫、旧記念館)
臨雲文庫、旧記念館
昭和12年(1937年) 大蔵大臣兼拓務大臣(下:貴族院本会議における結城蔵相演説)
貴族院本会議における結城蔵相演説
昭和12年(1937年) 日本銀行総裁
昭和19年(1944年) 日銀総裁を退く
昭和26年(1951年) 逝去、享年75歳
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